一流になることは、一種の危なさをはらんでいるとよく思います。
例えば私は、自分を何においても二流だと思っているのですが、それは身も蓋もなく、私の能力が一流じゃないからです。
というのも、一流の人というものは、それはもう全てからほとばしるように一流です。技術も志も心音も表情も、美しいと言う人はあります。そういう人を一流と言うのであって、相手の評価を捻じ伏せるようになった一流は一流ではないと思っています。
このたびの関西学院大学の事件で、思うことは、この子は二流だったのに一流になろう奮起しすぎて人を傷つけてしまったのではなかろうか。という事です。
市議のお父さんのリアクションとか加害者の学生さん、庇われがちですが本当にそうでしょうか。
悪質タックルをした、20歳の半大人をかばうマスコミの論調に疑問を感じます。
この人は、指示があったにせよ、そんなトップについていった判断力は明らかに低レベルです。被害者のお父さんも、市議という公職を私事でアッサリ捨てられるのは、(まぁ、今の世の中はそんな感じでしょうけど)、怒りにとらわれすぎではないのかと思うのです。
あくまで自分が世に出て一人前という理想は、人を傷つけずに完遂すべきものです。
洗脳に近い環境があったにせよ、そこに引っかからない人もいたはずであり、言い出しっぺが悪かろうが彼も悪い事はしました。間違ったトップに従ったことで罪を犯すことは、トップが悪いが所詮その人も悪いと思うのです。
そう思うから、一流(と人に認めてもらうこと)を追いすぎるのも怖いなと思います。戦争(反逆したら命が取られる)でもないのに、その指導者から逃げられないはずがありません。逃げられなかったのではなく逃げなかったのです。自分がスタメンになりたかったがために。
それともそんな「人の弱さ」も、私たちは受け入れてあげなければいけないのでしょうか。
私はそうではなく、あくまで悪いことは悪い、今回の話で言えば「間違ったトップについていっていないか自問自答する」それを学んでいかなければならないと思います。